このブログのタイトルの「ミロヴィ幼女」だがこれは僕の造語である。辞書を引いてもネットで検索しても意味はわからないと思うので説明する。
まず「ミロヴィ」とはミロのヴィーナスを意味する略語である。ミロのヴィーナスを略さなければいけないほど日常生活で頻繁に用いている人間を僕は自分以外に知らないので多分世界初出。使用例「これはミロヴィやね」
ちなみにミロのヴィーナスとは古代ギリシアで制作された両腕が欠けて紛失している彫刻の女性像であり、かの有名なパリのルーヴル美術館に展示されている名作。
しかしミロヴィ幼女とはミロのヴィーナスの幼女バージョンという意味ではない。ここでいう「ミロヴィ」とはミロのヴィーナスの欠けた腕に内包された無限性を指しているのである。こんな話を聞いたことはないだろうか?””ミロのヴィーナスの両腕は存在を欠いていることによって人類の想像を掻き立て、無限への飛翔を可能にしている””という説を。
実際にこの考え方が正しいかとか主流であるかは置いておいてこのミロのヴィーナスから得られた未だ明らかにされていない、未完成であるという状態は時に対象の美しさをより際立てる要素になり得るという教訓を僕はミロのヴィーナス現象と高校時代に呼び始め、長いのでミロヴィ現象、もしくはミロヴィと略すようになった。
以上を踏まえて「ミロヴィ幼女」というタイトルの意味を改めて考えてほしい。
幼女というのは在り方がとてもミロのヴィーナスの腕に近いことがわかるだろうか?そう、つまり幼女とは未だ成長段階であり現状のキャラ設定はいわば「芽」のようなもの。そこからどのような枝葉が伸びるかに多大なる未知数を有しているキャラクターなのである。無論成人した後でも年老いてからでも人は成長することができる。しかし、パーソナリティの柔軟性において幼女に勝る道理はないのではないか。
ここから先はさらに僕個人の趣味嗜好によるものだが、幼女であるというだけではミロヴィ幼女であるとは言えない。幼女は幼女でもませている幼女であることがミロヴィ幼女の条件なのだ。おませさん、年齢の割に大人びている、もしくは大人ぶっている幼女。つまりこっちの幼女じゃなくて
こっち
わかる?
この「芽」であるはずの段階で既に「木」へと成長した精神性に追いついている、もしくは追いつこうとしている幼女に時間という養分が与えられた時それはどれほどの成長を見せてくれるのだろうか?この未知数性を持つ幼女こそがミロヴィ幼女なのだ。
Twitterでたまに流れてくる橘ありす(17歳)の絵とかにエモい感情を抱くのもミロヴィね。
それでなんでこのブログのタイトルがそのミロヴィ幼女なのかというとサブブログはキモくて、覚えやすくて、被らないタイトルにしたかったからです。完璧でしょ?
りゅうおうのおしごと!4話のここのウインクまじでドキドキした…